不登校の子を持つ親に寄り添って20年。親子支援ネットワーク♪あんだんて♪

通信27号(2007年9月号)掲載「友達のこと」

「友達のこと」 通信27号(2007年9月発行)掲載

「友人は作るものではなく、できるもの」

 「友人」というテーマは親の方から出されたものですが、親の方から見た「友人」とは、多分、同年代の友人を指すのでしょう。親の方から見て自分の子どもに同年代の友人がいないのは、楽しさという点だけでなく、立ち直ることに関しても友人が必要なのではないかと心配になるのでしょう。では、この同年代の友人が不登校の子どもにとってどのような存在であるのか。それを今回は書きたいと思います。

 私の不登校時代を思い出してみると、最初の頃は友人と呼べる人はいませんでした。知り合い程度ならいましたが、悩みをうち明けるような関係になった人はいません。そもそも、私が不登校になった原因は友人に対する不信がその原因の一つでした。そのような私にとっては、友人は傷つけるものとして認識しており、なるべく友人関係になるのを遠ざけていたような気がします。
そのような状態はしばらく続くのですが、私は主治医と出会いその考え方を変えました。主治医に悩みをうち明けて、自分の悩みを話すことがどれほど自分を楽にするかを知ったときくらいから、だんだんと悩みをうち明けられる友人ができていったような気がします。

 そもそも、不登校の子どもが目指しているものは、社会で生きていくことであると思います。この時、社会が人のつながりで形成されていることを考えると、少なくとも、人とつながることは必要不可欠といえるでしょう。「傷つけるのも人ならば、癒すのも人である」と言われるように、人とのつながりが最も重要であると思います。ここでいう人とは、家族でもいいし、ベターなのは家族以外の人でしょうが、とにかく人であればいいと思います。私はこのように考えていますから、同年代の友人は立ち直る過程においては必ずしも必要ないものと思います。

 確かに、同年代の友人が得られれば楽しさや深い人間関係という点においてよりよいことは言うまでもありません。しかし、不登校の状況において(特に初期において)は同年代の友人を作るには不登校の子どもには二つの壁があると考えています。

 その壁とは、まず第一に同年代の友人は自分の成長と否が応でも比較してしまいます。年がはなれているならば、それほど気になりませんが、同年代だとどうしても自分の成長と比べてしまうでしょう。その時に励まし合えればいいのですが、劣っていると感じると落ち込むことがあると思います。第二に、話し合える友人を作るには、自分にもそれなりの覚悟が必要となります。親密なつきあいをすればするほど、自分の状況等を話さざるを得ない時もあるでしょう。その時には、自分の状況等をうち明けるだけの自分自身の余裕が必要になってきます。その余裕が多少ないと、親密なつきあいは難しいものであると思います。

 私は主治医に「友人は作るものではなく、できるものだ」と言われました。私は無理して作ろうとしてできないことに落ち込むことが多かったので、その言葉に救われたような気がしました。友人を作らなければだめだと思いこんでいましたが、その後、自然と構えるようになり、少しずつ友人ができていきました。もっとも、今は少しでも友人となれる人の可能性を上げるため、多少の努力はするようにはしています。ただ、どちらにしろ友人関係とは、互いの気持ちの合致ですから、基本は「できる」ものだと思っています。
 親の方も子どももこのような考え方に立てば、多少は気楽になれるものと思います。親が気楽になり、子どもの環境が整ってくれば、自然と友達は「できる」と思います。友人関係は後から勝手についてくるものと考えれば、友人について悩むことも少なくなるのではないでしょうか。(Q)

「友達とは・・・」

 僕の場合、学校に行かなくなった当時、その唯一の原因が友人関係にあると思っていたため、学校と離れると同時に交友関係もなくなっていきました。せいぜい年賀状の交換程度だったでしょうか。とにかく直接会うということは全くなくなりました。交友関係を絶つことは当時の自分にとって自分を守る手段ではありましたが、同時に大きな不安の要因でもありました。

 でも、なぜ交友関係が原因であったにもかかわらず、友人達と距離を置くことに不安を感じていたのでしょうか?それはもしかすると、ホントに大切な存在だったからいう理由以外に「友達がいることが普通だ」という小さな意地のようなものがあったからなのかもしれません。

 結局、僕は学校に行っていなかった時期に、友達に会うことも作ることもしませんでした。もともと一人遊びは得意だったし好きだったので、たまに暇になる以外は特に苦ではありませんでした。が、中学に入り、自宅での生活にもだいぶ慣れた頃、家庭教師の先生に週一で来てもらうことになりました。初めの頃は家族や先生以外の人と話すこと自体が久しぶりで、それも一対一であったため、元々かなり人見知りをする僕としてはこの上ないほどの緊張をしていました。が、次第に緊張と面倒臭さとを超えて楽しみが現れてきました。たわいのないことしか話さなかったけれど、それでもやっぱり誰かと顔を合わせたり、会話をしたりするのって楽しいなと思ったりしました。

 「友達」ってなんでしょうか?僕にも分かりません。でも、「友達」とは呼ばないかもしれないけれど、僕は家庭教師の先生と過ごした時間が楽しかったし、とても大切な時間だったんだなと今改めて思います。友達も大切だけど、誰か面と向かったり、笑ったりできることの方がもっと大切なんじゃないでしょうか。そして、逆に一人でいた時間も凄く大切だったなと思います。だって、一生の中でこれだけちゃんとした一人の時間をもてることってそう無いと思うんです。一人でいた時間の間に僕は今の自分を形成している色々なものをもらいました。だから、友達はいなかったけど色々なものを得た時間でした。(Naoki)

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