不登校の子を持つ親に寄り添って20年。親子支援ネットワーク♪あんだんて♪

通信29号(2008年1月発行)掲載「昼夜逆転」

「昼夜逆転」 通信28号(2007年11月発行)掲載

社会との接点は切れているか

 親の方から見て昼夜逆転は何故問題となるのでしょうか。それは、だらしなく見えるとか、何となく立ち直らないように見えるといったものではないでしょうか。確かに、昼夜逆転は生活の乱れを表しだらしなく見えるでしょう。また、昼夜逆転をしていれば、朝起きないのだから、学校には行くことができず立ち直らないように見えるという不安も、ある意味では抱いて当然の不安であると思います。しかし、だらしなく見えるという意味で言えば、日曜の父親に関しても言えると思います。また、もし、不登校の子どもが昼夜逆転をすると立ち直れないとすれば、ほとんどの不登校経験者が昼夜逆転をしているので、現在不登校を脱している人が確実にいることを考えると、この仮定は全く正しくないといえるでしょう。私は親の悩みで大きいのは、昼夜逆転は社会とのリンクができていないことが最大の不安要因なのではと思っています。では、昼夜逆転問題の本質は何なのでしょうか。今回は、そのことに焦点を当ててみたいと思います。

 私の経験を語らせてもらうと、私も例にもれず昼夜逆転をしていました。だいたい、テレビがただ定点カメラで風景を映し出す時間くらい、つまりは4時から5時くらいに寝て、「笑っていいとも」の時間、つまりは昼の12時くらいに起きるような生活を続けました。当然、親や兄弟はすでに家にはいなくて、ぼそっと起きて私にとっての朝食を取り、2時くらいからのワイドショーを見て、昼寝をし、夜の7時くらいに夜ご飯を食べ、それから寝るまではテレビを見る、ゲームをする、パソコンをいじるという生活を続けていたような気がします。

 では、何故私は昼夜逆転をしていたのか。私はこれを昼夜逆転していたという表現は正しくなく、ただ朝の時間帯は寝ていたかったという表現の方が正しいと思っています。朝は社会全体が動き出す時間帯です。朝起きると、親、兄弟は仕事・学校にいくことが当たり前で、起きていれば、その光景を見なければなりません。また、家の外からは子どもの登校する声が聞こえたりします。さらには、自分も不登校をする前までは学校に行く時間だったのから、学校に行かない自分を非難しがちであったと思います。これらの環境は、自分がいわゆる普通の生活をしていないことを痛烈に感じることとなります。すなわち、自分が不登校であることを再認識させ、自分を追い込んでしまうのです。

 一方、夜は外も静かだし、自分の世界に浸れることができます。当然ながら、みんなが学校に行っていないのが当たり前、家にいるのが当たり前の時間ですから、気は楽になります。
 自分の子どもに関して考えてみて欲しいのですが、例えば、学校が夏休みの場合、自分の子どもは多少元気にならないでしょうか。これは、その時期は学校に行かないのが当たり前だから、不登校の子どもも学校に行ってない自分を受け入れやすいからだと思います。この考えを敷衍させると、昼夜逆転とは、学校に行くべき時間を寝て過ごす事で、精神的に楽になるための子どもの防衛行動だとも考えられると思います。

 親の方には是非もう一度、何故昼夜逆転が問題になるのかを考えてみて欲しいと思います。私は不登校問題をすべて社会との関係で捉えていますが、不登校の子どもは社会の動きを潜在的に意識しているからこそ、朝起きなかったり、夏休みは元気になったりするのだから、社会との接点は切っていないと言えるのではないでしょうか。(Q)

深夜帯は魅力的

 今年の正月休み。それなりに忙しかった年末を超えて、やっと訪れた休息。・・・ではあったんですが、休みが始まると同時に全く何もしない――正しくは、寝るか食べるか、ネットかゲームか――という生活になり、「あー、~しないと」とか言ってる間に年が明けてしまってたりしました。そして、今そのことを思い出して「んっ」と思いました。どうしてかというと、今回のテーマである「昼夜逆転」を知らないうちに実践していたからです。
 といっても、ボクにとって昼夜逆転はさほど珍しいことではなく、今でも翌日が休みであれば、夜遅くまで起き、次の日の昼まで(あるいは夕方まで)寝ていたりします。それは学校に行ってなかった頃に身に付いたものですが・・・。

 学校に行かなくなると、ホントに一般的な時間の概念がなくなって、自分の時間が出来てきましたが、休み始めた頃はそうでもなかったんです。学校に行っている兄と同じ時間に起き(起こされたんだっけ?)、朝ご飯を食べる。寝る時間も次の日ちゃんと起きられるように寝る。これだけなんですが、これでもたぶん必死に頑張ってたんだろなと思います。でも、やっぱり長くは続かなかったし、しんどかったですね。だってそうする理由がなかったのですから。
 そうして自分の時間ができて来たと感じだした頃から、まずは絵を描いたり、工作したり、テレビを見たりということを始めました。それは、当時単なる暇つぶしでしたが、今考えると、一応自分で何をするか、自分の暇な時間を何をすれば一番有意義に過ごせるのか、たぶんそんなことを頭の奥底の方で考えていたんじゃないかななんて思います。
 でも、これはあくまでも自分のフィールドにあったものをどかした、その埋め合わせに過ぎなかったんじゃないかなと思います。だから、今度は自然に自分のフィールドを広げようと思ったんでしょう。それが、今まで足を踏み入れたことのなかった世界、深夜帯だったわけです。
 きっかけは深夜ラジオでした。深夜のラジオにはすごいドキドキわくわくしたものです。しーんと静まりかえった真っ暗な部屋で、スピーカーから声が聞こえると、それはまるで異世界のようでした。たくさんの笑いと、たくさんの音楽と、たくさんの知識をもらって、そこで自分が外の世界と繋がっているように感じてましたね。
 ツールは次第にテレビになり、今はネットになりました。でも、根本的な意味は変わってません。深夜という今まで踏み込んだことのないあの時間の中で、何か自分の世界を作るのって昼間に同じことをやるのとは、全然違うんです(あっ、ちなみにこの記事も深夜に書いてます。じゃないと書けないのです)。

 例えば、体や心がしんどくて、不眠や昼夜逆転になっていたり、昼夜逆転をしていることで身体や精神がつらくなっているのならば、それは別の話です。医療の助けが必要な場合もあるかと思います。ただ、大人の皆さんもやったことあるんじゃないでしょうか?あるいは今もやってるんじゃないですか、「夜更かし」。興味のある、新しい何かを新しい時間帯で見つけて、それがすごく魅力的だったとしたら、そしてその時出来なかった睡眠を補うために朝が、昼があるなら?
 昼夜逆転が「学校に行く」ということと真逆にあるように思えるかもしれません。けれど、少なくともボクは大学に行っていても、可能な時は昼夜逆転しています。で、学校に行ってなかったときでも必要であればきちんと起きていました。人間ってそんなもんじゃないのかな?(Naoki)

powered by QHM 6.0.4 haik
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional