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通信31号(2008年5月発行)掲載「社会性」

「社会性」 通信31号(2008年5月発行)掲載

社会性の有無はどのように決まるのか?

 「不登校の子どもには社会性が育つのか?」という心配を抱えられている親の方は数多くおられるでしょう。この悩みは多くの不登校の子どもも持っているものだと思います。
 しかし、この「社会性」の中身について考えたことはあるでしょうか?よく「社会性を身に付けて欲しい」という親の願いは聞きますが、「社会性って何ですか?」と聞けば、「とにかく社会で生きていってもらえばいいのです」と答えられる方もいて中身ははっきとしていません。私が考えるに、ここでの問題の本質は、どのようなものを身につければ社会性がありといえるのか、そのためには何をすればよいのかといったことがあまり語られないことにあります。これでは、子どもが対応できず、とまどうのも仕方がないでしょう。そこで、今回はこの社会性の中身について、少々書きたいと思います。

 かくいう私も、不登校時代には、社会性が身に付くのかという悩みがありました。私は不登校から大検(今でいう高卒認定試験)を取って大学に入り、そのまま院に入ったので、いわゆる社会人経験というものがありません。そのような経験しかないので、本当に社会性があるのかという悩みはごく最近まで持っていました。
 しかし、去年の2月くらいに、ある企業で研修をさせていただく機会があり、自分は意外と社会性があるのだなと思うようになりました。その時していたことと言えば、毎日出社しては、同じ部署の人に挨拶をし、仕事を教えてもらってはお礼を述べ、昼休みには昼ご飯を食べながら同じ部署の人々と世間話をし、帰りには「お先に失礼します」といって帰宅するという生活を送っていただけです。このような経験を経た私は、会社の方にも「社会性がある」と言っていただき、私自身も社会でやっていけるなという自信を得ました。

 では、何故このような会社での行為により、私が社会性についてそんなに悩まなくなったのでしょうか。
 それは、社会性は社会人経験のみで得られるものではなく、日々の日常生活において得られるものであることに気付いたからです。
 そもそも、社会性の評価は社会性があるかないかという抽象的なもので決するのではなく、挨拶ができる、お礼ができる等の社会性があるという評価にとってプラスになる評価根拠事実の積み重ねにより、社会性の有無の評価がなされるものだと思います。
 とすると、「社会性がない」と子どもにいってみても、子どもにとってはどの事実に基づくかが分からない評価を言われているだけに過ぎないので、反論のしようもないし、今後どのようにすれば「社会性がある」と評価されるのかが分からなくても当然です。そこで、「社会性を身につけて欲しい」と言うならば、その前提として「挨拶をちゃんとしなさい」とか「お礼をしなさい」といった評価根拠事実をも指摘してあげることが必要になってくると思います。
 そして、このような評価根拠事実は社会人経験のみによって養われるものではなく、日常生活からも得られることは分かっていただけるものと思います。何より学校とは無関係に養うことができることも分かっていただけるでしょう。具体的には親子間で挨拶をする、おしゃべりをすることでも社会性を涵養させていく基礎ができるはずなのです。
 当然、挨拶やお礼だけが社会性の評価根拠事実ではなく、他にも様々なものがあるでしょう。しかし、まずは、子どもが現在行動可能な評価根拠事実を述べてあげてください。そうすれば、子どもも目標が定まり、学校とは関係なしでも社会性を身につけるためには何をすればよいかが分かるものと思います。この積み重ねにより、親も子どもも目指している社会性がいつの間にか身に付いていくのだと思います。(Q)

社会性とはいったい?

 今回は社会性について考えてみました。社会性は学校に通う今も、と言うより最近よく考える、あるいはぶつかることの多い壁の1つです。そういうとき、「やっぱり、学校に行ってなかったから社会性が育たなかったのかな」とか「そもそも、社会性がなかったから、学校に行かなくなったのかな」とか、不登校と絡めて考えることもよくあります。
 
 そもそも社会性とは、「集団を作り、社会を営もうとする根本的性質や性格」という意味だそうです。つまりは、学校に行かなくなってから、どこの集団にも属すことの無くなっていた当時の僕に、社会性というものは無関係でしかなかったわけです。集団というより、そもそも家族以外の人間と関わり合いを持つということからしてなくなりましたからね。毎日、一人で過ごすという生活は4年半続きました。その間にも、家庭教師の先生に来ていただいていたりはしましたが、自分からぶつかっていくような対等な人間関係を築くことはなく、社会性とはやはり無縁でした。

 その後、高校に入ると、自分が不登校になる前と変わっていることに気づきました。元々、人見知りが激しいところはあったんですが、それがさらにパワーアップしていたのです。自分のテリトリーの中だけで生活をして、新しく何かを開拓することもなく、たとえ先生であっても本心は話さない。本心はホントに心を許している人だけに、それ以外のものには、よく言えば警戒強く、悪く言えば心を開かない状態でした。だから、家に帰ってきたり、友達(高校時代の唯一の友人。先生に引き合わせてもらったけど、仲良くなったのは社会性のおかげなのか?)と二人になったときは、毎回ほっとしていました(これは現在進行形ですかね)。社会性というものが怖かったのかもしれません。また、その理由が、過去の人間関係が原因なのか、4年半も人と関係を築くという行為をしてこなかったからなのか、それともそれ以外なのかも分かりませんが。とにかく我ながら閉鎖的でした。

 それから、社会性を取り戻すことがないまま、去年大学に入りました。大学ではそれこそ小学校以来と言えるくらい久々に、共同作業をする機会が増えました。人見知りもそのままで、話をするだけで若干パニックになってしまったり。そんな状態での共同作業。どうしたらいいか分からないことばっかりだったし、誰かと何かをするという空気だけでちょっとしんどくなるようでした。共同作業をしてみたいという気持ちは確かにあっても、何か一歩引いてしまうという嫌な性質は相変わらずでした。これが社会性のなさの表れかは知りませんが。

 でも、最近すこしだけ状況が変化していきました(います)。社会性とまでは呼べなくても、誰かに話しかけたり、自己主張が少しずつ出来るようになってきました。まさにただいま戦闘中です。人にとっては当たり前かもしれませんが、僕にとってはびっくりする成長です(我ながらいうのも何ですが)でも、社会性ってもしかしたらこういうことの積み重ねなのかなって思います。

 今回振り返ってみて、分ったことがありました。学校に行かなくなって、社会性と無関係になっても、そこに至るまでは社会性のある生活をしていたんですよね。たとえどんなに短くてもです。集団で関係を築いていくのが得意不得意は当然あるんだと思います。また、集団そのものが自分に合わないということもあるのだと思います。社会性は元から無いんじゃなくて、使わなかったらしまい込まれるのかもしれません。僕は今、それを引っ張り出している真っ最中です。(Naoki)

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