不登校の子を持つ親に寄り添って20年。親子支援ネットワーク♪あんだんて♪

通信36号(2009年3月発行)掲載「動き出すとき」

「動き出すとき」 通信36号(2009年3月発行)掲載

 全ての源は支えにある~動きと心の関係について

 子どもが動き出したとき、親は多分喜ぶでしょう。今まで動いてなかった子どもが、動いたのだから、子どもの成長を感じ取って、嬉しくなるのも無理からぬことだと思います。また、動き出すことは心の動きと連動しているようにも思え、心の成長の現れのようにも思えるので、その点でも嬉しくなるものと思います。
しかし、私の場合、動いていることと心の動きは必ずしも連動していませんでした。心の成長を自分で感じられたときは嬉しくはなりましたが、動いていること自体で成長を感じたことはあまりありませんでした。経験上、動いていても心は閉じたままだったり、じっと動かなかったときでも、自分の心の成長を感じたことがあります。
このような心境でしたから、親が私が動き出しているときに喜んでいるのは、少々複雑な気持ちでした。自分の事で親が悩んでいるのは分かっていますから、喜んで貰えるのは嬉しいことです。しかし、今度また動き出さなくなったときに、親が落ち込む姿を見て、私もそれにつられてさらに落ち込むことが何回かありました。
 では、このように子どもと親に深く影響力を持つ動くことと心の成長とはどのような関係にあるのでしょうか。私の実際の行動と心の動きを振り返りながら、二つの関係性について書いてみたいと思います。
 私は、高一の時に不登校になり、高二の時には大検、今で言う高卒認定試験を取得しました。大検を取るには勉強が必要ですから、その時は外面的には動いていたように見えていたでしょう。しかし、この大検も自分の考えと言うよりも、親に言われたからという側面が強かったような気がします。自分では、ぼんやりと大学進学を考えてはいましたが、大検を取った後に受験に向けて動き出すといった感じはなく、親が言うから取っておこうみたいな感じが強かったような気がします。
 しかし、自分の心が動きだしたなと思い始めた時があります。それは、私が20歳くらいになったとき、このままでは自分はどうなってしまうのかと思い始めたときです。そのような悩みを抱えていたとき、私は必死にこれまで以上に今後の人生を考えていました。この時期は、こもる事が多かったような気がします。そして、考え込んで数ヶ月後に、自分で自助グループに行ってみたり、親に紹介された心療内科の先生の所に行ってみたりしました。この真剣に悩み、家にこもったときこそが私の心が動きだし、多少成長できたかなと思える瞬間です。
 私は不登校は心の問題であると捉えています。学校に行っている、行っていない、動いている動いていないかが重要なのではなく、心がどうなっているかがもっとも重要だと思います。なぜならば、心がいい状態ならば、その時点での動きがどうであるかには関係なく、将来的に良い方向に向かうと思えるからです。
 そして、心がいい状態というのは、自分が支えられていると認識できることだと思います。私の場合、親、自助グループ、主治医と3つの支えがあり、動き出して上手くいかなくてもまだ自分は支えがあると思えたからこそ、いい動きができたのだと思います。
 親の方には、子どもの行動で一喜一憂するのではなく、たとえまた動かなくなっても支えになるという気持ちを子どもに見せてあげればいいものと思います。
 また、子どもの行動で親の中の満足感のベースラインを上げないで欲しいとも思います。私自身今でも、いつか不登校、もしくはひきこもりになるのではないかという考えがありますが、それでも支えは失わないだろうと気持ちでなんとか動けています。(Q)

「動き出すとき」とは?

 よくある質問として「学校に行こうと思えるようになったのはどうして?」と言うものがあります。僕の場合、この質問に答えるのに軽く一週間はかかると思います。正直一番困る質問ですね。そんな問いに今回改めて挑んでみました。動き出したと言われたときどうだったのか。

 まず、高校に行くことになったのは流れに身を任せたというのが実のところです。自分の中は「中学の次は高校」という考えがありました。それは学校に行っている、行っていないということが関係ないとも思っていました。あとは親や周りが「これを機に動いてほしい」というオーラを出していて、自分の中にも不登校に対して自己嫌悪感があったので「そろそろどうにかしないとな」などとも思っていました。高校に行こうと思ったのは何かを克服したからでは一切ありませんでした。
 むしろ逆というか、勉強もやってなくて、友達もいなくて、ほぼ家に閉じこもってることに少なからず不安やコンプレックスもあったのです。僕の場合はそれらを乗り越えたいというより「えー、勉強も何もしないなんてヤバすぎる」という気持ちが強かったんですよね。何もしなくても自動的に進級できる義務教育という命綱が無くなって「あ、そうか、そういう選ばなきゃいけない時期なんだ」と自覚したんです。ある意味投げ出されたから決心できたのかもしれないですね。

 大学も実は変わらないんですよ。ほんとに成長が無いというか・・・(笑)学校でも受験や模試の話しが出てきて、「どこに行くのか考えろ」になって、状況を飲み込めないまま流れ流されていったんです。でも、それがどんどんきつくなってきて、ついには棄権してしまったんですよね。その時初めて「自分って何がしたいんだろう」って考えました。もしかしたらそれが動いた瞬間なのかも?
 1年後、改めて受験をすることになったとき、やっぱり流れに身を任せていた気がします。でも、流れに乗るコツを少し掴んだというか、受験2年目ともなると同じ失敗は出来ないなと思っていましたし、やっぱり自分でどうしようか迷えたのは、腹をくくるという意味でも良かったのかなと思います。最終的にはやっぱり自分が決めたことだったので。

 僕はめちゃめちゃビビリなので動くのにすごく時間がかかるんですが、不思議なもので、自分でも予想していなかったタイミングで足が前に出たりするんですよね。逆に「あとほんのひとかけらの勇気があれば」なんて言うこともあります。でも、そんな時は「迷うと言うことは、考えているということなのかな」と、ポジティブに捕らえるようにしています。
 日常生活を送っていて不安に思ったり、怖くなったりするのって『動いている』、あるいは『動こうと思っている』からなんじゃないかと思います。どうでもいいと思っているなら、そんなことすら感じないと思うので。そういう気持ちがあるから、「あぁしたい、こうしたい」と思えるのかなと。そして、そういった気持ちを含んで、流れやタイミング、出会いや願望によって行動に発展していくのでないでしょうか。少なくとも僕はいつもそんな感じですね。
 そうじゃないと僕の人生は、全く動いていないことになるので(笑)(Naoki)

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